北 の 旅人。 北の旅人: 二木紘三のうた物語

北の旅人

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「北の旅人」は蛇足にもあるように、少しも衰えを感じさせず、最盛期と同じように艶やかに歌えていますが、実質最後の吹き込み収録となったカップリング曲「想い出はアカシア」を聴いていると、その声には覇気がなく、息つきも辛そうな部分が感じとられ、いかに裕ちゃんのコンディションが優れてはいなかったかが想像できます。

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9月17日(第498回)には最高3位に上昇、10月1日(第500回・10位)まで連続5週間ランクインした。 幸い、観客は歌へた の身内二人だけ・・・。

石原裕次郎 北の旅人 歌詞

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芸能生活30周年のアルバム企画の一環として、そのときオケ録 オーケストラ録音 が終わっていた「わが人生に悔いなし」「おれの人生」が第1弾としてレコーディングされた。 9万枚を売り上げた。 系の音楽番組『』では、1987年8月27日(第495回放映)に9位で初登場し、没後の歌手として初めて同番組にランクインした。

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「北の旅人」の累計売上は調べで125万枚。

北の旅人: 二木紘三のうた物語

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レコーディングは闘病中に行われたはずですが、少しも衰えを感じさせず、最盛期と同じ艶のある歌声を聞かせてくれます。 裕ちゃんが亡くなりこの歌がヒットしていた頃、私は身体を壊し、初めての入院生活をしておりましたが、その時に私の部下たちがお見舞いに来てくれた時、裕ちゃんファンの私のために、お花と一緒に渡されたのが、当時発売になったばかりの、早く元気になって下さい!との、寄せ書きメッセージを添えた「石原裕次郎ベストヒット12・北の旅人」のCDアルバムでした。

私は、ここ2~3年 歌い手さんから頼まれても、司会もナレーションも体よくお断りしてますが、つい先日、私のパートナーと本部の若い担当者と夜11時頃、入浴の前にカラオケラウンジを覗くと、たまたま無人でしたので、ちょっと1曲!と、裕次郎の「北の旅人」と「恋の町札幌」をだみ声とファルセットで、ごまかして歌ってみました。 「北の旅人」「想い出はアカシア」の2曲は、生前最後のシングルとなった「」「俺の人生」とともに、石原がで療養していたから、のドルフィンスタジオにて録音された。

北の旅人

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ハワイで療養していたときに、現地に機材を持ち込みレコーディング。

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テイチクは稼がせてもらったのに、ちゃっかり追悼盤をレコーディングしていたと非難轟々だったが、テイチクの関係者は癌で危ないことを知らされていなかった。

北の旅人

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「この歌は、石原裕次郎が病気と闘っている最中にレコーディングしたそうで、ワンコーラス歌っては酸素吸入、そして横になり、そして、また歌って、やっと録音したとか。 一章様がUPして下さった「北の旅人」の動画、じっくりと噛みしめながら聴かせて頂きました。

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作詞:山口洋子、作曲:弦哲也、唄:石原裕次郎 1 たどりついたら 岬のはずれ 赤い灯 (ひ)が点 (つ)く ぽつりとひとつ いまでもあなたを 待ってると いとしいおまえの 呼ぶ声が 俺の背中で 潮風 (かぜ)になる 夜の釧路は 雨になるだろう 2 ふるい酒場で 噂をきいた 窓のむこうは 木枯まじり 半年まえまで 居たという 泣きぐせ 酒ぐせ 泪 (なみだ)ぐせ どこへ去 (い)ったか 細い影 夜の函館 霧がつらすぎる 3 空でちぎれる あの汽笛さえ 泣いて別れる さい果て港 いちどはこの手に 抱きしめて 泣かせてやりたい 思いきり 消えぬ面影 たずねびと 夜の小樽は 雪が肩に舞う 《蛇足》 石原裕次郎は昭和62年(1987) 7月17日、入院中の慶應義塾大学病院で死去。 改めて、YouTubeの動画で拝聴しましたが、病床の中、裕次郎の最後のレコーディングをなされ、彼が歌うこの歌心の表現の豊かさには感動・感動に勝るものはないと感じている次第です。

旅人

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以来、カラオケとは、全くの無縁状態でした。 歌いだしのフレーズは弦によるもので、によって残りの歌詞が書かれた。

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フランク永井やアイジョージ、石原裕次郎の曲がリクエストされると、2番 あこがれさん うたってね!と、頼まれるのが当たり前みたいに、気持ちよく引き受けて楽しんだものですが、77才の春を境にカミさんからも、リクエストが掛からなくなりました。

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投稿: 香西 千鶴 2008年5月22日 木 23時23分 「北の旅人」のエピソードです。

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特に主張するでもなく、特に悲しみや淋しさを訴えるのでもなく、低い抑えたような声で、淡々と唄う歌は、聴いているほうで切ない気持ちを味わっています。 長い間シングル盤を発売していなかったので、先行して昭和62(1987)年4月21日発売する予定だった。